ランドセルという日本の小学生特有のグッズは、それはそれは色んなドラマを生みました。
新しいランドセルを買ってもらったこと。
ピカピカのランドセルのこと。
兄弟からのお下がりのランドセルを貰ったこと。
大事にしていたランドセルが壊れてしまったこと。
つい邪険にしてしまい、それに気がついて一人でなぜか悲しくなってしまったこと。
誰かにおもちゃの虫なんかを入れて、イタズラをしたこと。
あれは誰々のランドセルだと、遠くからでもちゃんとわかったこと。
私たちはこのランドセルというものをごく当たり前の自然なものとして認識していますが、欧米からすれば不思議で、驚きの文化です。
ランドセルをしょって、子供たちが朝の街を駆け抜けてきます。
昭和の昔はそのランドセルにゴムで定期券がくくりつけられていました。
お守りがゆれていました。
「ランドセルを持った?」「支度をした?」ランドセルは学校という場所へゆくための切符でもありました。
ランドセルは教科書やノートが整然と収納できました。
筆箱には筆箱の場所、ノートにはノートの、定規には定規の場所があって、それがぴったりと収まりました。
どう色んな雑多なものを収納し、支度すればよいのか、子供たちにはランドセルが分かりやすく教えてくれました。
物事は、それぞれが収まるところに収めなくてはならない、そういうことがランドセルによって教えられたのだと言えます。
そのような教材としての効果もランドセルにはありました。
今、私たちは大人になってごく普通にケースや収納や引き出し、色んなものを適切な場所に収めることをしています。
しかし、なんでも放り投げておき、すぐに取り出せるからとしているような、そんな海外の文化もあります。
片付けておかない人、そんな人もいます。
そしていざという時には見当たらず、使う時間より探す時間が多かったりする。
携帯やスマホ、デジカメ、MP3、眼鏡、クレカ、鍵、USB、、、。
私たちは今もなぜケースや収納にこだわるのか。
それはその使う道具、世話になるものへの愛着があるからです。
子供にはまだ道具への愛着がわかりません。
すべてが初めての持ち物。経験です。
教材もノートも「道具」です。
ランドセルはまず、その収納機能を最初に見せることで、道具というものとの付き合い方を教えてくれました。
子供たちにランドセルの収納を通じて、道具というものを教えてくれる効果があったのだと思います。
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