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押しくら饅頭


 おしくらまんじゅう
 押されて泣くな、♪

 おしくらまんじゅう
 押されて泣くな、♪


 冬の寒い日、それをやれば温まるなんていわれたものだ。

 昭和の思い出だ。

 ある日のこと、近所の年寄りたちが学校にフラフラとやってきて、子供たちがこれをやるのを見たがった。

 わけがわからず、言われるままにその時に校庭にいた子供たちが老人の指導のままにおしくらまんじゅうを習った。

 そして唄を教わった。


 あれはなんだったのか。

 きっと、自分にとって懐かしいものを見たかったのだろうと思う。



 実際、何が楽しいのか訳が分からん話ではあった。

 ゲームでもなければ体操でもない。
 みんなが声を掛け合い、そしてカラダを真ん中に押し付けるだけのこと。


 それに、その後何度かやってはみたのだったが、これで泣いた子供というのを見たことがなかった。それも不思議だった。

 歌にそうあるから、何か痛みを伴うことがあるかといつも期待したものだがまるでない。
 
 穏やかな遊びだった。


 当時ですらすでに共同体は崩れつつあった。

 核家族と言われ、鍵っ子と言われ、一人っ子と言われるようになっていた。


 子供でさえ、お互いがそれほど親密になることはなくなっていた。
 子供同士が同じ釜のメシを食ったように、絆を持つこともなくなっていた。


 全てが孤独になりつつあった時代だ。
 強くなくては生きられないことは誰にも明らかだった。


 ただ、一同で体を寄せ合って、なんだか奇妙な遊びを体験させられた気分にはなった。
 好きな子に触れられるのも楽しかった。


 確かに冬の寒い校庭で少しは温かくはなったものだけれども。
 乾布摩擦という古い習慣があるが、あんなものかと薄っすらとは理解した。


 集団行動というわけでもなかった。
 だから教師がこれをやらせたということはない。

 街の老人が、子供たちにまるでねだるようにやらせたものに過ぎない。


 廃れてしまった共同体、それを懐かしむように老人たちは見たがったのだろうか。
 寂しく哀れな話ではある。


 しかし今、同じように老人となった人々がこんなことを頼めるかというとそれはない。

 年寄りたちが、その傍若無人のわがままゆえに、自ら欲しがるものをすっかり壊してしまったのだ。

 今はお互いに決して信用などできぬ。

 小汚いジジイ、ババアども、老醜が年甲斐もなく若作りしているのを見るだけだ。
 そこに子供など近づけられようもない。


 彼らとて校庭の子供たちの声を嫌う。そしてクレームを市役所にする。

 そうして紙と水の節約だとスーパーや図書館のトイレで用を足しに行き、屍の毎日を過ごす。
 獄門のような日常だ。

 そして独りきり、愚にもつかない下種なテレビに見入って毒つくのだ。


 昭和を懐かしむことは、その昭和を過ごし今に至るまで我が国を腐らせてきた連中を思い出すことになる。


 子供時代に昭和を過ごした我々は、公正さを学んだ。

 それは厳しく、冷たく、甘えは許されない。


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ハンカチ落とし


 これはゲームの一種です。


 体育館や校庭で、授業中に教師が子供たちにゲームをさせることがありました。

 「ハンカチ落とし」というのは、そんなゲームのひとつでした。

 野外学習や遠足の時、そんな時にやられることもありました。
 教師が号令をかけてゲームを教えます。まずゲームのルールとやり方を教え、子供たちにやらせたのです。
 それは授業の一環でした。

 子供らが自発的にこうしたゲームを思いつくことはありません。
 あくまで遊びではなくてゲームでした。

 「伝言ゲーム」というのもそんなもののひとつです。

 教育的に役立つという理屈があり、指導カリキュラムにあったからです。



 子供たちの遊びというものは、学校から教えられるゲームとは違うものでした。

 子供たちの「遊び」とは、子供同士で伝わるメンコ遊びや追いかけっこ、陣取りゲーム、そんなものでした。

 他にも子供たちがそれぞれの地元や近所での遊びを学校に持ち込んだものもありました。

 ただ、ほとんどのゲーム的なことはみな教師が教え、指導してやらせたものです。


 輪になって輪の内側を向いて座った外側を一人がハンカチを持って一周する。

 その時にハンカチを誰かの背後に落とします。

 それを気がついて捕まえたりオニが交代するというゲームです。


 今の子供たちの学校では、まずやられていることはないと思います。

 ちょっと前に問題となった組体操や人間ピラミッドのような危険なことも、指導カリキュラムに教師が盲目的に従っているというだけのことです。




 ハンカチを誰が落とされたかその子以外は大体分かるのですから、表情を読んだりして気付くことができます。

 立ち上がったすぐに落としてフェイントをかけることもできるでしょう。

 落とされてもいない子供がそんなフリをすることも面白いかも知れません。


 ちょっと考えても、本来なら色々考えることのできる遊びだったはずですが、あまり授業で繰り返しやられることはありませんでした。

 もちろん、子供たちの間でこのゲームが普及し、休み時間に積極的にやられるということはありませんでした。


 教師たちはカリキュラムに沿ってやっているという感じを隠さず、子供らが楽しむようになると放り出してしまいます。

 授業でやられることはなく、後は自分らでやればいいというわけです。


 しかし、休み時間というのは子供たちにはまた別な意味がありましたから、授業でやられることがなければわざわざ「ハンカチ落とし」など追求することはなかったのです。



 それに、ハンカチ落としというゲームは男の子、女の子の間での「好き嫌い」という感情とすぐに結びつきました。

 そういうものが露骨に出てしまうものは、やはり授業でもなければ誰もやろうとはしなかったのです。


 その上、子供たちは大人のアザとさを嫌いました。

 教師側から持ちかけられるものはそうしたアザとさ、魂胆のあるものに感じられました。
 学校はクラスメートがいる楽しいところであっても、教師の疑わしさというのはよく感じていたのです。

 こんなハンカチ落としを自発的にやろうなどと言い出せば、子供と言えども仲間内で鼻で笑われたに違いありません。

 
 「授業で教えられた」と、昔の子供たちが家族に話すことはあまりありませんでした。

 せいぜいテストの成績が話題になるぐらいだったのです。

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