「ドリル」というのは、昭和の時代にハヤっていた勉強の方法のひとつです。
今の時代にあわせて表現すれば、それは繰り返し、繰り返して、似たようなパターンの解決方法を習得する、ひとつの「学習メソッド」ということになるでしょうか。
しかし、それは今からすれば、まるで違うニュアンスに思えます。
今は、繰り返しでパターン化する習得というのはあまり役に立たないということが分かっています。
慣れがあり、パターン化した学習は応用ができない。
今の時代は応用化、変化への適用ということに教育は絞られています。
一度、こういう「パターンの習得」ということを習得してしまうと、「世渡りに慣れた人間」というものを産みやすいのです。
結局、それはあまり使える能力を育むものではありません。
なんでも同じようなこととして簡単に納得してしまい、ナメてかかってしまう。
世の中はパターンだからと、まるで抜け道があるかのように常に解決したような気になってしまう短絡。
考えてみれば、その後、ファミコンというものが生まれた時もその名残りがありました。
いつものラスボス、いつものパターン。
同じドリルだったのです。
しかしコンピューター技術の発達とともにそれが加速し、そのコンピューターゲームが進化してAIなどが活用されるようになり、「世の中はそんなパターンでは解決できない」と知らしめられる、そんな歴史をたどっていったのです。
軍人がやる訓練、それを英語では「ドリル」と言います。
繰り返しもいいし、慣れへの警戒もいい。結局、私たちは何のために訓練をするか、それを忘れてはならないのです。
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