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あや取り


 ゴム跳びもそうでしたが、やはり女の子たちがやっていたことで「あや取り」というものがありました。

 輪にしたヒモを指先で器用に取って次の人に渡す。
 
 その輪のとり方で次の人は違う形にする。両手でかけているテンションを崩さないように取るわけです。

 そしてまた次の人がそれを取って形にする。

 誰でも知っていることだと思います。


 
 しかしあれも私にはよくわからないものでした。

 やってみるとすぐにアヤが複雑になって、続きません。

 わずか数回で行き詰まってしまいます。


 どんどんアヤが複雑になる。

 最後には小さくなりすぎてとうとう取れなくなります。


 あれはどういうのか、途中でアヤを少し戻すようなことでもするんでしょうか。

 「アヤ戻し」と言う言葉はありますが、これとは関係ないのでしょうか。


 そのまま取っていくと、せいぜい三回、四回ぐらいでそこから先はもうとれないぐらい小さくなってしまいます。


 最初はいいです。

 その次、そしてその次とどんどん指をかけて形状が複雑になってゆく。

 それが橋に見えたり、ハシゴに見えたり、何かの形になるというのはいい。

 
 けれど、それはテニスのラリーのように、続けてゆくようなものではないんでしょうか?


 私は、結局その行き詰まるのが違うと思っていました。

 どうにもそれが面白くなくて、私はみんながこのゲームのルールというか趣旨を理解しないままでいるような気がしていたものです。



 ただ、正しくこのアヤ取りがずっと続けられいるのも知りません。

 見たことはないのですが・・・。謎です。

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ドリル勉強法


 「ドリル」というのは、昭和の時代にハヤっていた勉強の方法のひとつです。


 今の時代にあわせて表現すれば、それは繰り返し、繰り返して、似たようなパターンの解決方法を習得する、ひとつの「学習メソッド」ということになるでしょうか。


 しかし、それは今からすれば、まるで違うニュアンスに思えます。



 今は、繰り返しでパターン化する習得というのはあまり役に立たないということが分かっています。

 慣れがあり、パターン化した学習は応用ができない。

 今の時代は応用化、変化への適用ということに教育は絞られています。



 一度、こういう「パターンの習得」ということを習得してしまうと、「世渡りに慣れた人間」というものを産みやすいのです。
 結局、それはあまり使える能力を育むものではありません。


 なんでも同じようなこととして簡単に納得してしまい、ナメてかかってしまう。

 世の中はパターンだからと、まるで抜け道があるかのように常に解決したような気になってしまう短絡。


 考えてみれば、その後、ファミコンというものが生まれた時もその名残りがありました。
 いつものラスボス、いつものパターン。
 同じドリルだったのです。


 しかしコンピューター技術の発達とともにそれが加速し、そのコンピューターゲームが進化してAIなどが活用されるようになり、「世の中はそんなパターンでは解決できない」と知らしめられる、そんな歴史をたどっていったのです。



 軍人がやる訓練、それを英語では「ドリル」と言います。 

 繰り返しもいいし、慣れへの警戒もいい。結局、私たちは何のために訓練をするか、それを忘れてはならないのです。








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