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家庭訪問

教師がそれぞれの生徒の自宅を個別に訪問し、親との関係や生活態度を観察し、育ち方を判定する。

 親に対しては日頃の教育現場で注目された点を報告もする。

 こうしたことを踏まえてその後は生徒の成長について引き続き経過観察をする。


 カッコよく言えばそんなところがこの「家庭訪問」というものの最初の趣旨だったろうか(笑)。



 これは戦後教育に新たに導入された制度だったが、すでに最初から意味のないものになっていて、真面目に取り組む教師というのは誰もいなかった。


 教師にとっては生徒の自宅訪問はまるで外回りの営業マンのようで、怠慢な教師たちには一番嫌なものだったようだ。


 この「家庭訪問」は世間的には面白おかしく揶揄もされ、マンガやロマポルノ、ドラマやコントなど、ネタとして様々にとりあげられるぐらいで、現実には儀式のようなものでしかなかった。



 だいたい、越境通学が常態化しているところでは家庭訪問など成り立ちようもない。

 
 また教師とてそこまで教育に責任を持てるはずもなく、教育現場と制度上の建前は乖離していた。

 イジメを見ぬふりをし、家庭DVですら見過ごしにするしかない教師が家庭を訪問したところで、どうにもなりようもなかった。

 そもそも人間観察の訓練を積んだわけでもない教師なのだから、家庭の「査定」にもならなかったはずだ。


 結局、これは「誰が教育について責任を持つのか」という問題がないがしろにしたまま、無責任な旗振りが行われたというだけのことでしかない。



 やや皮肉な言い方にはなったが、少なくとも当時の子供らには「教師が家にやってくる」ということでの「非日常」があった。


 教師に見られてはまずいものがあるとか、家庭での豹変した態度を知られたくないとか、まるでコントのようにジタバタした子供もいた。

 それ自体が子供たちには面白いイベントではあった。


 逆にいい加減な教師たちが、教室での態度からどう変わって世間的な態度を見せるか見れるというので、子供側からの関心も起きた。


 子供らにとっては、教師というものが普通の社会できちんと振舞えるのか分からないところがあったからだ。



 片や教師はと言えば、とにかく回らねばならないと各家庭を汗をたらして歩き回り、ひたすらノルマを消化することに腐心した。


 迎える家庭の側も、教師に茶や菓子を出してみたり、どうとりつくろったらよいのかが分からないケースが相次いだ。


 学校と家庭、そのどちらもがその境界を越えることには抵抗があったのかも知れない。



 子供らは逆にこうした境界があることを教えられたようなものだ。

 学校では友だちとして付き合ったり言葉を交わし、グループになれと言われればお互いに笑い合いふざけたりもする。

 しかし、ひとたび帰宅してランドセルを置けば学校の友人は他人でしかない。


 近所の公園で遊んだり付き合うというのはあくまでも「プライベート」な関係であり、学校とは違う世界だ。



 薄々気がついてはいたが家庭訪問があって初めて、子供たちはそんなことを実感したのかも知れない。



 もしそういうことが明確にならなければ、後年になって問題となった「イジメ問題」というのも起きようがなかった。


 そんな気もする。


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クリスマス会


 よく授業が日教組の集まりやデモ参加で潰れたものだが、教室で開かれるようになった誕生会というのはその時のカッコウの時間つぶしにはなっていたのだった。

  だが教師たちは結局、誕生会を禁止した。



 そんな中、子供たちの中で自然とアイディアが浮かんだ。
 それが「クリスマス会」というものだった。
 他の学校ではしている、宗教的にもよいことらしい、なにしろ西暦というのはキリスト以降にカウントされた年数だ。

  そんな言い訳もあり、空いた時間にクリスマス会をクラスで開くことが許されるようになった。
 左向きに凝り固まり、子供らの扱いをとにかく簡単にしたかった教師たちも宗教ということには公然と異論は唱えられなかったらしい。

 子供たちはささやかなプレゼントを持ち寄り、互いに交換し、楽しんだ。
 人にモノを渡すというのは教育的な効果がある。
 誰かを想定して、人が喜ぶものはどんなものかと考えるのだ。
 自分が何かを欲しがってダダをこねるのとは違った。


 そうして子供たちは買い物にも出かけ、様々なことを学んでいった。


 そのうちジュースや菓子などの持ち寄りもあったりして、やはり風紀的にも金品のやり取りとしてもよくないということで、お喋りのような時間になった。

 クリスマスの日、それを話の種にと、クラスで自由におしゃべりが出来る時間になった。

 クリスマス会はクリスマスの意味というのを考えるよい機会にもなった。
 ミッション系の学校というわけではなかったが、そうした家庭の子供もいた。
 何よりキリストの生誕までのファンタジーのような話は子供たちには楽しいものだった。

 しかし子供時代にはたいていはここまでだった。

 
 新しい神の子が馬小屋で生まれ、それは人を導く新たな王となる。

 キリストが「王」と僭称された咎で磔にされて処刑され、復活するところは子供にはあまり近い話ではなかった。

 残酷性というより、「復活」という考え方はまだ理解できなかっただろう。


 本人が洗礼を受けたキリスト者だったり、家族がそうであれば知らぬはずはなかったと思うがそうした話を聞いたことはない。

 今思うと、学校でのクリスマス会というのは、イブではなくクリスマスの日25日にしていた気がする。

 もちろん、今時のような聖なる夜というのは子供たちには関係なかった。

 せいぜい家庭でケーキを食べるぐらいであった。


 イブの翌日、学校で開かれるクリスマス会はせいぜい飾りつけなどがされただけの質素なものになったが、それぞれのクリスマスイブの報告会のようなものになった。

 子供たちがそれぞれの家庭での出来事を自由にお喋りする寛いだ時間になった。

 そんな時、教師はあまり騒ぐなと言い残して必ずどこかへ行ってしまったものだ。


 クリスマスが休日に重なってなってしまえば、学校でクリスマス会が開かれることはなかった。

 その年はクリスマス会は開かれない年となった。

 それはイベントの日に学校に行かなくてもいいような、それでいて学校に行って話しができないのが残念なような、複雑な気持ちになったものだ。



 もはやサンタの存在を信じるような子供はいなかったが、クリスマスというのは大きなイベントでもあった。

 親がプレゼントをくれるという「決まり」も全国に普及した。


 それは学校でもなく社会の行事でもない、どこからかやってきたピリオドでありイベントだった。

 そういうお仕着せでないものが子供たちを喜ばせたのだった。

 小学校なら六年、わずか六回ということになし休日でなかった年もあった。

 だがそれでも、クリスマス会というのは強烈な印象を残した。


 それはひとえに南蛮渡来のキリスト教であり、海外の文化を我々日本人がどう受け容れてきたかの歴史を実感することでもあった。

 何も大袈裟な言い方でもなく、子供たちはそのため、たいていはキリシタンの弾圧や島原の乱、天草四郎などの歴史に強い興味を持ったものだ。




 そうしてクリスマス会では、子供たちは親たちとの関係でのプレゼントやサンタの演技など、子供たちは大いに語り合ったものだ。


 それは大人たちの目線の届かない、子供だけの学びでもあった。


 子供は親がなくとも育つ。


 メリークリスマス。




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