秋です。運動会日和の曇り空が続いています(笑)。
秋というのは運動会の季節です。暑くもなく寒くもなく、体を動かすのにちょうどよい季節です。
今はコロナでそれはちょっとムリなのかも知れません。
運動会の話はあまり聞きませんから、どこも中止なんでしょうか。
文字通りの学校崩壊状態で、どこもこのところロクに授業もないようです。
今、ここで頑張った子供、気がついた親がいる子供だけが将来を豊かに生き残ってゆけるでしょう。
私には運動会というのはあまり好きなものではありませんでした。
まず団体行動が大嫌いだったということがありますw。
やらされることへの抵抗というより、集団でみなが思い思いに思惑を抱え牽制しながらやる集団行動が嫌らしく感じた。
他人の顔色を伺いながら、信用がおけないと子供の頃から思っていたから。
またパフォーマンスの猿回しにさせられる白々しさもありました。
こうした団体行動というのは、父母に見せるための教師たちにとってのショーでもあったからです。
どの要素も、私には気分が悪くなるほどでした。
昭和と言う時代というのは、とかく群れようとする人々の流ればかりが目に付き、主流を占めていたのだと思います。
今の時代、自分ひとりで判断できなくては生き残ることさえどうか。
群れない世代が育ってくれることを願っています。
こんな群れに慣れさせられた人々が今、高齢になって彷徨っているのかも知れません。
いい歳をしてこのコロナの最中、寂しいだのイベントだの外食だの、そしてフレンチに遅れるからと人を撥ねて言い分けにトヨタのせいにしたりします。
そんな人々が今、コロナ自粛で「人と触れ合えず寂しい」と言っている人々なのかも知れません(笑)。
最近はスーパーにもまた人が増えています。
「運動会」というものに良い部分があるとすれば、それはプログラムの進行にあったのだと私は思っています。
運動会当日、入場行進から出し物の順番までが決まっています。
そうして次々と種目が披露され、消化してゆく。

やることが決まれば役割分担も必然的に決まります。
運動会をつつがなく終了させるためにみながその責任を果たすことです。
子供たちの中にはその役割を担う子供たちもいました。
私もアナウンスや誘導、進行をやって少しは楽しめたこともあります。
そういうプログラムと仕事との必然性というもの、連携はとても有意義で、私は好きだった覚えがあります。
結局、本来は運動会というのは別に運動オンチだろうが、体力的に弱いだろうが関係がなかったということです。
あの盛りだくさんのプログラムとプログラムの連携こそがその教育的効果の本質だったと思います。
生徒たちは運動会では自分たちが主役と考えていた子が多かった。
もっと目立とうと競争に夢中になりました。
それもよいことのひとつでした。
あれから時代が新しくなって、こうした競争的な面というのはボカされていったと聞きますが、勝敗を競うというのは悪いことではありません。
なかなかよい教育効果があったかも知れません。
群れになることに逆らうにしても従うにしても、運動会というイベントは我々に何かを気付かさせてはくれたのでした。
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