遠足にでも行かなければ弁当など普段は食べることはなかった。
給食があるものだから自分の親も金をもたせるぐらいだった。
ただ、時々、給食が休みになるときがあった。
きっと親にも子供の弁当ぐらい作らせたい、ということだったのかも知れなかったが、日教組とかのデモとかストライキなどもあった頃だから、そっちが本当の理由だったかもしれない。
それが弁当の日だった。
この弁当というのが、各家庭の特徴がよく出ていて、面白かったものだ。
ある男の子が、サラダのようなものを持ってきて、真っ赤なドレッシングのようなものを振ってかけて食べていた。弁当というにはご大層な準備のかかったものだった。
それをみんなが、何だろうと思ったものだ。
それがキムチドレッシングというものであるらしく、みんながそれを知るにいたり、キムチというと朝鮮だというのでザワついたものだ。
山口百恵が「蒼い時」という自伝を出した頃で、一気に朝鮮人というものが目立つようになった頃だった。
ちょっと前から彼の家が大きなことは知られていて、サラ金、金貸しでもやっていたのか、とにかく彼はクラスでも大いに浮いてしまっていたものだ。
民族のものを平然と持たせること、ああいう神経というのは、今からすればとんでもない。
その場ではないのに、何かの主張をいきなりしようとする。
思えば彼とは誰も深い付き合いをせず、いつしかどこかへ転校して消えていった。
小学校低学年となるとまだ純粋で、それぞれ弁当の中身を見せ合ったりした。分け合ったり交換し合ったりした連中もいた。
豊かさ、愛情、家族構成などが透けて見えたものだ。
見物するだけでも楽しいものがあった。
今よりも質素でノリ弁だのシャケ弁だのが多かった。
キャラ弁などなかったし、鳥のから揚げを交換するとかそんなもの。
一番の工夫だと思ったのは、弁当なのに汁を持たせられた子供がいて、感心したことだ。
汁など冷めたりもれたりするのに、魔法瓶か何かに入れて持ってきていて、みんながその家庭の工夫と汁を弁当で飲める贅沢を羨ましく思った。
そうして、いつも手の込んだ弁当を持ってくる子は注目を自然に浴びるようになったりして、みんなが中身を見たがった。
一度ならず、弁当のふたを開けてみんなが巡回して見る、みたいなことになったりもした。
その時は変態教師がいず、生徒たちだけで弁当を食っていた日だった。
さすがに点数まではつけなかったが、他の学校などではそういう子供たちもいたと聞く。
中学生なんかになればもうそれはしない。
人に家庭の味など知られるなんて、嫌がるようになるものだ。
中学生にでもなると、いつの間にかほとんどの連中が手や蓋で隠すようにして弁当を食うようになったもんだから、不思議でならなかったことがあった。
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