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蒼い時



 人生で二度だけ、女たちの「群れ」としての騒ぎようというのを見て、私はポカーンとするしかなかった記憶があります。

 女子たちの群れが男子に関わりないところでざわめき、女子の誰かが悲嘆にくれるようにしてその中で騒ぐ、どうやら女子のみながショックを受けている、そんな光景が目に浮かびます。

 誰かが泣き始めたりもしました。

 そうすると、みなが釣られて号泣した。


 まるでそれは動物の、それこそメスの群れのようなものに感じたものです。

 そんな光景を見た経験がありました。


 私はわけがわからず、ただ遠くからポカンと傍観しているしかなかったという記憶。




 それはこれまでの人生でわずか二回しかない経験です。

 私自身の経験としてはそれほど少ない経験ということになります。


 もちろん、それが実際の悲劇ではないのは明白なことでした。

 何か誰かの直接の不幸でないことは、雰囲気で遠くからでもすぐにわかったものです。
 

 ただ私には、女性と言うのがこんなわけの分からないことで悲嘆にくれるというのが理解できなかったというだけ。

 それは女子につきもののヒステリー的な面を私に教えてくれた経験でもありました。 




 最初に遭遇したのは小学生、子供の頃のことでした。

 ある日、朝に教室に行くと、なにやら教室の片隅がザワついていました。

 女子たちがグループになってひそひそとやっていた。

 どうやら一冊の本を巡って話をし、本を回覧し、動揺しうろたえているらしいのは分かりました。


 そうしてある女子、私が常々可愛いと思っていた女子がその悲嘆の顔をふと見せたのです。

 それは私がこれまで見たこともないような大人びた、まるでそれは「オバサン」のような顔だったのを私はよく覚えています。


 その回覧されていた本というのは、「蒼いとき」というものでした。

 昭和の人気歌手、山口百恵の自伝でした。



 そこには、百恵が朝鮮人の子供であることが自身の赤裸々な告白として書かれていて、それが女子たちに衝撃を与えたのでした。

 しかし私には「へえ」というぐらいのものでしかありませんでした。


 当時はまだザイニチというのはあまり反日的ではなかったというのもありますが、だいたい、子供の男子にとっては百恵というのはちょっと違った人でした。

 山口百恵というのは、アイドルというよりも、暗い影を見せるような歌手でした。

 彼女をエロいと感じた男子連中と言うのはきっといたのかも知れませんが、それはもう少し年長の、少しは人生の分かってきたような連中だったはずです。


 子供の男子というのは、それこそキャンディーズとかピンクレディなんかがいいと思っていたものだからです。



 親が朝鮮人。

 確かに昔はそういうカミングアウトはあまりなく、ザイニチというのは普段からひっそりと隠れていたものです。

 だから、もちろん、今のようにに反社会的なグループとしてのザイニチという認識はありませんでした。


 不逞外国人であることは変わらないかも知れませんが、その血を引いていたことが暴露されたことで「驚く」というのはあったとしても、それほどの衝撃はなかっただろうと思うのです。

 しかもだいたい、なぜ、河原乞食風情のことでベソをかくほどビックリするのか、私はそんな思いで女子たちの騒ぎを見ていた覚えがあります。

 ポカンとしてた記憶がある。
 




 二度目の経験は、それからずっと後になってバイトなどで生計を立てていた頃でした。

 喫茶店でのこと、ある朝、スポーツ新聞が配られると、ウェイトレスたちがその一面を見て嬌声を上げ騒いだのでした。

 「マッチと聖子が結婚へ」確かそんな見出しだったと思いますww。

 当時の彼らは確かにアイドルだったでしょうが、テレビなどなかった私にはとんとピンとこないものでした。


 「なぜそんなことで騒ぐのか」と、やはり呆れたものです。

 私よりもずっと年上の女性たちが騒ぎ、嘆いたのを私は他人事のように眺めていました。 


 ウェイトレスの一人などは号泣し、喫茶店のソファに泣き崩れたものです(笑)。





 私にはちょっと世間とズレたところがあるかも知れません。

 なぜか女子というのは芸能関係に激しく心を動かされる。それが私にはわかりません。 


 ただ、言えるのは、今はザイニチや朝鮮人らの勢力というのは意識されてはいても、昔はこんなものではなかったということです。
 
 その連中にしても露骨な反日活動やヘイトはせず、慰安婦の虚言もまだなかったのです。

 
 だから、なぜ芸能関係に女子は昔から騒ぐのか、女子と言うのはなぜテレビの話題にはいつも敏感なのか、それを考えるとますます分からなくなるのです。

 謎です(笑)。


 

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運動会.2

昔の子供たちは競争が大好きでした。

 かけっこなんかがとても大好きでした。

 運動会の障害物競走なんて、まるでRPGゲームのように大好きでした。

 友だちとの競争が大事でした。

 色んな意味での競争がありました。

 運動、体力、要領、知恵、どんな場合でも子供たちはお互いを競い合うものでした。


 今、それはいけないことのように言われているけれども、どこか違う気がします。


 そうして、社会で生き残る厳しさ、残酷さを子供たちは薄々感じるようになってゆく。

 それは言ってみれば、あまり挫折感のない競争でしたから、傷つくことのない学びになりました。

 だからよい競争ではあったのです。


 もう一度、もう一度と、子供たちは訳も分からず、次の雪辱戦を求めました。そんな競争を望んだのですから。

 現実の競争では敗者復活戦はほとんどありません。


 今、競争という側面が子供たちに対してボカされているというのは、まさに不幸なのかも知れません。

 彼らは現実を知らずに社会に放り出されることになるからです。



 運動会というのは、色んな教育的なものを盛り込んではいましたが、子供たちに思う存分に体力を発散してもらう、その教師たちの指導の成果を見せる発表会でもあったと思います。

 どれだけすくすくと我が子や孫が元気に育っているか、学校がその成果を親たちに見せる発表会でもありました。


 そしてプログラムの中には団体行動なんかが盛り込まれ、子供たちにはどれだけ躾がされているかどうか、父兄たちにお披露目されるという意味がありました。


 ダンス。

 そんな種目にしても、もしかしたら子供たちが将来の社交が出来るかどうかという、未来の姿を見せる機会であったのかも知れません。

 綱引き、それは誰が号令をかけられるか、うちの子供にはリーダーの資質があるのか、それぞれの子供たちの素質を親たちが見れる機会だったかも知れません。



 みんなが運動会当日では忙しく過ごしました。


 色んな種目をやり、回ってくる順番を次々に消化してゆきました。

 目まぐるしく、それはまるでゲームや舞台の早代わりのようで、子供たちはそれを楽しみました。


 必要なこと、やらねばならぬ決まったこと、それを次々とこなしてゆく能率、効率。


 学校はそうした教育、団体行動の成果を父兄たちに見てもらう必要があったのです。


 考えてみれば、オリンピックにしても、こういうものでなければいけないかも知れません。

 スポーツがカネになると歪んで育つようになったアスリート、スポーツが人生だとその本質を歪ませ、タレント活動となってしまった場に国家のカネをかける必要などないのです。



 この昭和の頃、親たちは学校に常に疑いを持っていました。

 日教組が問題となっていた頃でした。


 学校の中では何を教えているか分かったもんではない。

 どうせくだらない日教組の教師たちがおかしなことを子供吹き込んでいる、そんなものに洗脳された子供は将来ロクでもない人生しか歩めなくなる。

 そんな話は昔は常にありました。


 だから学習塾が盛んになり、学校教育などは二の次になったりしたのでした。

 受験戦争などと言われはしましたが、程度のいい学校へ行かせるというのはそういう妙な介入が避けられる教育を受ける選択という意味もあったのです。


 だから、こうして小学校のレベルでも授業の成果が開放され、父兄の視線に晒される機会というのはとても重要なことだったのです。



 一方で子供たちはそんなことにはお構いなしでした。

 ダンスでは気に入った女の子と手を繋げることを楽しみにしましたし、体力自慢の子供はここぞという時に自分を披露するチャンスでした。


 頭のよい子供ばかりではありません。体力のある子供ばかりではありません。

 頭の良い子は要領のよさで、借り物競争なんかを切り抜けた。


 今でこそデデニーランドなど、色んな出来合いのエンターテイメントのある世の中ですが、昔は子供にとっては、通う学校の催しが最大のイベントだったのでした。



 そうして、お昼になり、お弁当を各自が持ち寄ってまるで花見のように各家族がワイワイと場所をとって昼食をとったりします。

 今度は家族の結びつきという「成果」をお互いに見せ合う番になります。

 程度のよい学校ほどこうした試されるようなところが多くありました。

 両親が不仲であるとかは、アメリカでも重要なマイナス要因になります。


 しかしお昼の時間は子供たちにとっては遠足のような楽しみでした。

 外で食事を取ること、他の友だちの家族の団欒を見ながら食事をすることはとてもワクワクすることだったのです。


 思えばこのお昼の時間は妙に長かったような気がします。




 昭和の昔は、運動会でビデオカメラを回す親はいませんでした。


 声を張り上げて親がわが子を応援したりなんてことさえなかった。

 そんなことを祖母や祖父などはよくしたものですが、そうすると子供は嫌がったものです。


 ビデオカメラを片手に子供の競争を声を張り上げて応援するなんて、それこそカメラメーカーが無理やりに作ったものかも知れません。



 運動会では親たちが学校の様子と運営を知るというのが大事でした。

 そして親たちはお互いに家族の関係というのを見せ合いました。


 自分の子供が大事にされているか、疎外されていないか、団体行動の中でそれを見に行ったのです。


 運動会などの学校の催しが、子供の成長の記録とか記念のようになっていったのは、ちょっと後になってからのことです。

 その頃は学校運営は正常化され、異常な教師はすぐに問題になっていました。


 さすがに教師への監督はいっそう厳しくなり、勝手なことをする教師はあまりいなくなった頃です。

 教師の児童へのイタズラがあれば、すぐにでも警察沙汰になった頃です。


 そうなる前は、運動会は学校を解放して親がその成果を「監査」する場であったと言えます。

 今、PTAのような常設の集まりが廃れ、父母会のようにして何か問題が起きると集まるという形になったのは「学校といえども法律に従って正しく運用されている」という、そんな保障がある程度できるようになったせいかも知れません。


 ただ、まだ学校側はイジメへの対応などでは相変わらず法を無視したところがあります。

 変態教師は資格を剥奪されることもなく、偽装してまた次の学校で餌食を探すのです。


 見かけは洗練されてきたように見えても、昔と相変わらず、教師や学校の運営と言うのは、親が監視していなければいけないものなのかも知れません。


 また今回のコロナで、こうした学校開放の機会は減りつつあるようです。


 子供の将来を左右する大事な時期、どれだけ工夫できるかは各家庭に委ねられています。



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