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デパート


 「デパート」。というと、デパートメントストアということです。

 なんだか今となっては、とても違和感のある言葉にに聞こえます。

 「百貨店」と言い換えてもなんか違う感じがします。

 このネット時代の現代では、デパートはいったいなんと呼べば適当なのでしょうか(笑)。



 昭和の昔、デパートというのはまるで輝いているようでした。

 それこそ、家族の暮らしと切り離せないぐらいのものがありました。

 それは家族のレジャーの場であり、団欒の場であり、ピクニックの場でありました。

 「デパートは何でも揃う」、というのがキャッチフレーズでしたが、デパートにはもっと一杯のワクワクする要素が詰まっていました。

 とりわけ子供たちはデパートへ家族とでかけるのが楽しみでした。

 心なしかいつもの親よりも優しくなった気がしました。


 子供たちは必ずデパートに行くとおもちゃ売り場に行きたがりました。

 そうして、そこに子供を残し、親たちはそれぞれ買い物をしにゆきました。

 
 奥さんはイベントを見たり着物なんかの新作を眺めにゆきます。

 旦那さんはキレイなお姉さんのいる化粧品売り場に目を奪われたり、釣具やゴルフ用具なんかを見て周っていました。




 デパートは色んな趣味が満たされる特別な空間でした。

 そして子供たちはオモチャ売り場で遊ぶものを見つけていました。


 それは家族全員にとって楽しい共通の空間だったのです。



 そうして、たいてい最上階には必ずあったデパートの食堂での食事がその日のメインイベントでした。

 今のイートインのようなものではありません。
 そこは「食堂」と呼ばれていました。

 ちゃんとした食器があり、ワゴンサービスがあり、テーブルにはテーブルクロスが敷かれていました。


 そしてそこでは、それこそ、和食はもちろんのこと、中華から洋食、寿司なんてのもあって、ちゃんとした調理人がいて、色々な料理が注文できました。

 家族がみんな、好きなものを遠慮なく注文できたのです。


 子供たちは、たいてい「お子様ランチ」を頼んだものです。

 お子様ランチは旗がオムライスの上に立っていて、プリンやフルーツがついていました。

 小さなハンバーグとちょっとした野菜。

 子供たちの嫌いなものは何一つ入っていませんでした。

 そしてオマケなんかもついてたりしました。子供たちはそのワクワクするような飾り付けられたプレートを楽しみにしていました。


 デパートの食堂の大きな広いホールはいつも満杯でした。

 父親が吸うタバコは煙を上げ、奥さんの噂話は弾みました。

 そこで知り合いに会ったりすると、挨拶をして、まるでちょっとした社交場でした。


 ガヤガヤと家族連れ、みんなが食事を楽しんでいたものです。



 当時、デパートというのはちょっとしたエンターテイメント施設でもあったのです。

 今、コロナで買い物がエンターテイメント化しているといわれますが、こんなデパートの当時を知らない若い従業員からは最近は苦情が出るようです。

 いわく「必要最小限の人数で買い物に来てくれ」なんて、言われてしまう始末。


 当時の昔はデパートはそんなことはありませんでした。

 給料日前なんかだと、旦那さんはきまってデパートに家族を連れてゆきます。

 お金を使わなければちょっとした楽しみが味わえ、家族も満足してくれるというわけです。


 「外食」という文化が芽生えたのもこの頃だったかも知れません。


 ウィンドーショッピングならぬデパート三昧の休日でした。

 
 そしてそこで見て、欲しいと思ったものを我慢して次の給料日に買えるようにお父さんは頑張りました。

 そのお父さんを支えようとお母さんは家事にいそしみました。


 デパートには家事を便利にさせてくれる主婦のためのものも沢山紹介されていました。



 デパートはそんな、戦後の復興の団欒、新しい家族のライフスタイルを盛り上げていたのでした。


 その後、月賦販売なんてのが登場して、だんだんとデパートの雲行きは少し怪しくなってゆきます。

 わざわざお金を貯めなくても欲しいものが買えるように、時代がゆっくりと変わってゆきました。


 少子化、核家族化なんてこともデパートの変貌によるものだったかも知れません。

 あるいはそれが原因だったのか。



 「にぎわい」はコロナでは余計なこと、感染の危険とされるようになりました。

 最近はすっかり「物産展」のようなものも開かれなくなったようです。


 デパートはこれから、どうなってゆくのでしょう。


 それでもまだ今は、デパートは昭和の古い記憶としてなんとか私たちの心に残っています。


 それは思い出だったり甘い記憶だったりします。


 しかし、やはり時代の趨勢というのはあるのでしょうか。



 デパートで様々な催しやイベントがあり、お客さんをひきつけたのも今はあまりありません。



 色んなものがデジタル化され、分かりやすくなって、曖昧なことや不透明なことがなくなっている世の中です。

 何が欲しいということもなくブラブラとデパートを巡るということはなくなっています。


 デパートの閉店も多くなりました。


 それでも、日本の各地ではまだ、昭和のそんな記憶を閉じ込めたまま、まだ多くのデパートが営業を続けています。

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焼き芋売り

 焼き芋売りというのは昭和の昔からの典型的なモノ売り商売です。
 大きな大八車を改造して引いて売っていました。

 「大八車」というのは今で言えばリヤカーでしょうか。

 オヤジさんがそれを引いて売っていました。


 リヤカーは薪をくべて火を燃やすようになっていて、その鉄板の上には石が敷き詰められていました。

 たいていは黒い石でした。

 きっと那智なんかの「黒石」で、遠赤外線効果があったのでしょう。


 つい最近まで、こうした薪は都市部では割とたやすく手に入るものでした。

 木造家屋を解体すると柱や梁なんかが廃棄物として出ます。

 昭和の成長期、スクラップアンドビルドの波が都市部をすっかり変えてゆきました。

 その解体、建て替えなどで多くの木の端材が出たのです。


 街の銭湯、お風呂屋さんでも、ごく最近までそうした木材を仕入れて燃やしていました。



 焼き芋屋さんはリヤカーの下で薪をくべ、焼き芋を作りながら引いて売ります。
 そのリヤカーには小さな煙突がくっついていて、煙を少しだけ上に出していたことを思い出します。

 リヤカーから出る煙は人々の行き交う街の少し上を漂って秋の空へと消えてゆきました。



 たいてい初老のオヤジさんがリヤカーを引きながら声を張り上げ、芋を売り歩いていました。
 「石ぃーしぃーいいぃ、
       やぁぁああーきーいーもぉぉぉぉ。 おイモ!」

 なんて名調子でした。
 よく通る声を出して街角を引いて売っていたものです。
 焼き芋の皮が焼ける匂いがして、かすかに焦げる匂いとともに焼き芋屋さんがどこかでリヤカーを引いているのが分かります。

 秋になると街角にはそんな匂いが漂ったのでした。

 昭和の懐かしい風景です。

 
 そんな風に焼き芋屋さんのリヤカーが目立つ時期というのは、秋口から冬へと移る頃でした。

 その頃はストーブやコタツが恋しい季節です。
 リヤカーの下にかがんで、くべた薪をひっくり返して、時々、焼き芋屋さんはリヤカーを止めます。

 パチパチ弾ける薪に音をかすかにさせながら、オヤジさんが作業をしています。

 下校中、子供たちはそれを見つけると、そばに寄って行って暖を取ろうとするのが常でした。
 それは街に突然出現した焚き火のようでした。

 焼き芋売りのリヤカーの周りは暖かかったのです。


 半ズボン姿の男の子なんかは、脚が赤くなるまでそのリヤカーの胴体に体を近づけて暖をとったりしています。


 オヤジさんもそんな子供たちの考えはよく知っていて、
 「ほらほら、商売を邪魔しない。シッシっ」なんて追い払おうとします。
 「行った行ったっ!子供は風の子、元気な子!」 なんて言う(笑)

 オヤジさんに邪険にされながらも、子供たちはリヤカーの周りに付きまとって温まろうとします。


 そんなところに女子なんかが通りかかると、なぜかたいてい彼女たちは男子たちを尻目に小さなお財布を出して焼き芋を買っていたりします。

 男の子は「俺たちにもオゴレよ」なんてからかって、そんなふざけあいをしていると、お芋屋さんが男の子にはタダで小さな芋をくれたりしました。

 女子が買って少しは売れたことだし、子供たちの人払いをしたかったんでしょう。


 昭和の秋の夕暮れ、懐かしい光景が目に浮かびます。


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