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裁縫セット


 どうしたわけか「裁縫をやれ」という授業があった。

 男子でもそれはやらされ、裁縫セットというのを買わせられた。

 今ならどうなのだろうか。
 生徒の選択制だのとやって、また現場は自由を曲解した教育をしているのだろうか。


 それはともかく、昭和の時代、学校というのはこうしていつもなんらかの金を出させということはあった。

 少なくとも誰かが誰かのお古をもらい、カネを払わなかったというのは聞かなかった。




 そうして、子供たちみなに裁縫セットというのが手に入り、そこにはハサミや針、糸など一通りのものが揃えられていた。

 それが学校に届けられ、各自に配られた時には、みなが感嘆の声を上げたものだ。

 全ての道具がきちんと整然と揃っている美しさは子供でも理解できる。

 男の子はその機能と段取りに喜び、女子はその細かい普段見られない配慮というもの、つまり女性らしさに触れたことを喜んだ。



 そうして裁縫の授業となり、授業では最初に直線縫いを教わった。

 それでまずその裁縫セットの袋を縫うということになったのも周到だった。

 覚えたての技術で、自分の名前をカタカナで刺繍するようなこともした覚えがある。

 一筆書きの要領だ。



 ステッチの種類を覚えるということまではなかったが、直線縫いと最後に糸を止めること、その頃に覚えた裁縫に関する基本の技術は今でもその通りのままに自分で使っている。


 授業はたいそう真剣なものになった。

 男子でも面白いように縫うことができ、よくあるような誰か母親が作るような袋が作れるのだった。

 特に、縫った縫い目を裏返せば最後には縫い目が見えなくなるということは驚きだった。

 大人からしたら当たり前だが、一種の発想、そんな仕掛けにみなが舌を巻いた。


 気がつかなければ分からないことというのは多い。
 そうした何気ない発見が楽しく感じられた授業だった。

 モノを一度も縫っているのを見たことがなければ、こんなことは授業でもなければ理解などできなかったはずだ。



 そうして、誰もがボタンつけぐらいは低学年でできるようになっていた。

 ボタンの構造すらよく理解することがないまま、漫然と使っていたぐらいだから、これはよい学習の機会になった。

 裁縫がどうやってもできない、そんな子はいなかった。


 この裁縫を教えてくれた婆さんは例の愛国者で、教員のグループからは外れた教師だったが、家庭科ということで教えに来てくれたものだ。

 彼女からは生徒は色んなことを教わったものだが、雑談ばかりでなく、こんな実用的なことも教える家庭科の先生ではあった。
 
 「男でもボタンつけぐらいできないようじゃ、恥ずかしくて生きてゆけない」なんて言われて、男子は真剣になったものだ。

 恥ずかしさのあまりにに死ぬなんて、なんという正しい日本人の心を捉えた言葉だったか。




 この授業で不思議とケガをした生徒はいなかった。

 ふざけたりする生徒はいなかった。

 いつもなら色気づいた男子や女子が、こんな裁縫をめぐってなんらかのやり取りなんかをしたりしたはずが、それもなかった。

 なぜか裁縫に関しては何もおきなかった。

 いつになく新鮮な課題であり、それにみなが熱中したのだった。


 その後、好きな奴は自分で縫う、そんなことが常識として実感できたのは、ありがたい教育のたまものだと思っている。



 「何でも自分でできなければ恥ずかしい」現在はこんな価値感は共有されていないのだろうか。そんな話も聞いたりする。

 サバイブできない負け犬が言い訳をしているのだろう。

 言い訳ばかりで弱肉強食の本質さえ分からず、人を貶めれば有利に立てると勘違いしている連中はいる。

 連中には、こんな心はわかるまい。

 すくなくともこんな時代、卑怯者は許されることはなかった。

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光化学スモッグ

昭和の高度成長期には各地で公害が発生しました。

 「光化学スモッグ」というものもそのひとつでした。


 主に都会、交通量の多い、自動車からの排気ガスが溜まりやすいところで、亜硫酸ガスなど有害なガスの濃度が多くなり、喉の痛みや目の痛みを訴える子供がでると言う事態が起きました。

 それが川崎病であったり、光化学スモッグというものでした。


 昭和の時代には学校へこの発生が通知されたりして、子供たちは健康のために学校を早めに切り上げるというようなことをしています。

 当初、この問題への対策はただ「逃げる」ということでしかなかったように思います。



 やがて公害対策への必要の高まりとともにこの問題はクローズアップされ、自動車の排気ガス規制などもされるようになってゆきます。

 日本は公害問題をなんとか乗り越えてゆきます。

 今、「ばい煙」とか「スモッグ」と言われてもピンとこない人たちがほとんどでしょう。

 それだけの過程を経て現在に至っているということです。


 それまでに日本の学校は、公害のために授業を中止ということが頻繁にあったのでした。

 光化学スモッグ注意報、警報、都会の学校ではそんな警報が度々され、授業が早めに切り上げられるなどの対策が取られました。




 もちろん、その前から日本にはもっと苛烈な公害が発生し、水俣病やヘドロ、六価クロム汚染、それこそ日本は一時は公害大国でもあったのでした。

 この「公害問題」というのは、当時、学校が生徒に教える一番の大きなことだったかも知れません。

 私たち子供は水俣病のグロ画像やニュース映像を繰り返し見せられ、そうした公共心を養っていたのだと思います。


 だから、それだけに今、同じ世代で「コロナを拡散させてやる」などという人々がいることには驚きを禁じえません。

 彼らの育ちはどうだったのか、と。



 そうした教育を通じてなんとか社会全体でこの公害という問題を共有させよう、継続的に対応してゆこう、そのような教育の意図があったことが分かります。

 そのような教育を経て、多くの人々が環境へ配慮できるという、今のリタラシーを身につけることができたのかも知れません。


 だから、レジ袋が有料になることで文句を言う人々に、この世代が少なからず含まれていることには驚かざるを得ません。





 ともかく、そうしてこれらに対処し、経済的繁栄と環境の共存を進めてきたという今の日本の成功があるのです。


 我々は、今なら中国の殺人的なPM2.5のことや無策の話を聞くと、よくクニを逃げ出さないものだと思ってしまいますが、彼らもまた国や自治体が対策を打つことを信じているのでしょう。


 その教育も意識もどうかは分かりません。

 この先、中国政府がどうなるかも分からないことではありますが。


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