転校というケースがあります。
それは昔は、今よりもずっと多いものだったはずです。
親の都合、進学のため、色んな理由はありましたが、転校というのは子供たちに少なからず傷を残したものです。
転校に入ってゆく新しい学校、顔を知らないクラスメイト。
何もかもがとまどいの連続です。
そしてその輪の中に入っていく、その難しさ。
いくら子供と言っても、そこにはなんらかのストレスがありました。
まだ未発達な成長期の子供の精神にとって、そのようなストレスはどんな影響を与えたでしょう。
大人は環境の変化に適応しようとすることが出来ます。
しかし子供は環境の変化に慣らされることしかできません。
まだ子供が、そうした変化に適応することを強いられることは、その成長にとって決してよい影響にはなるとは言えません。
今の時代はそれほど理不尽な転勤はなくなり、こうした親都合の転校はなくなったようですが、それこそ昔はとても身勝手なことが平気で行われていました。
転校してゆき学校を去ってゆくことにも辛いものがありました。
全てを諦めなければならない気持ち。
友人たちとの別れ。
仲のよかったクラスメイトとの別れ。
「家族が引き裂かれる」などと言われますが、子供たちの仲にも同じような痛みがあったはずです。
仲のよい友人たちと別れて、さよならを言うことは子供には理不尽なことでしかありません。
その別れは友人たちとの記憶を薄めてしまいます。
転校の経験がある人々は、大人になった後になって、子供の頃の友人たちとのよい記憶というのをあまり思い出せないものです。
一方で、こういうことを早くから諦めるよう慣れてきた子供はいました。
何度も同じことが起き、とうとう麻痺するようになってしまった子供たち、典型的な転勤族の子供たちです。
彼らは親の都合によって転校してゆきます。
親すら理不尽な会社都合に生活を諦めるのです。子供も同じように「仕方ないさ」という感情に慣れるようになってゆきます。
彼らはそれこそ異常なほど転校を繰り返した子供時代を過ごしています。
それはほとんどの場合、諦めやすい、流される人格を作ります。
彼らはごく子供の頃から、そうした生活の変化や強いられた変化に慣らされてきたのです。
やがて社会人になって、そうした変わり身の早い、悪く言えば他人との絆が気付けない、ある意味で信用にならない人間になってゆくことは容易に想像ができます。
物事にあまりこだわりがない人。
何でもすぐに諦めて投げてしまうような人です。
もちろん、そうした友人関係に恵まれなかったり、頼れないと知ったことで勉強に励んだ子もいたかも知れません。
そうして熱心に学力を向上させたかも知れません。
しかしそんな子でも、なかなか世の中の流れに立ち向かうことはできません。
彼らはただ慣れてゆくしかないと服従を刷り込まれてきた子供たちなのです。
そうした諦めは、転校を傷として残した子供たちよりダメージがあったかもしれません。
もし、大人になって人との信頼関係や絆に疑問を感じるなら、その薄さと自分の感情にとまどっているなら、子供の頃に転校がなかったかどうかよく思い出すべきです。
それがどこかで見えない傷になっているのだとしたら、思い出すことでトラウマを消すことが出来るかも知れません。
ほとんどの子供たち、普通の子供たちというのは転校を経験することはありません。
それはクラス変えとはまた違ったものです。
自分ではどうにもならない環境の変化、絶望に暮れる子供を誰が想像できるでしょう。
そうして無力感を飲み込み、そんな子供はひとつの諦観に囚われてゆくようになるのでしょうか。
「子供を大人の都合で振り回してはいけない」
今ではごく普通に言われることでも、では転校についてその影響を考えられる大人がどれだけいるでしょうか。
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