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学級委員


 子供にとって学校というのは最初の社会です。

 そこではまるで自分とは関わりなくルールや慣例というものが以前から動いていて、私たちはこれに合わせねばならないということを学んでゆきます。

 
 学級委員の選出というのは、その最初の社会的な実体への接触だったと言えるかも知れません。


 学級委員の立候補とか、その投票などは、私たち子供にも大人と同じようなルールが適用されるのだと思わせるに大いに役立つものだったと思います。

 私たちは外を歩いて学校に通いますから、社会というものとは物理的には大いに接点はあります。


 しかし大人は大人でしかなく、子供は子供です。


 まるで違うルールと習慣に生きているのですから、社会で動いている仕組みを理解するということはありません。



 学級委員というのは、その意味で、先生から渡された社会を理解するためのバトンのようなものでした。
 
 小学校一年生、初めて学級委員について先生から説明を受け、学級委員というものの選出が必要であることを聞かせられても、実は私たち子供はその意味がよく分かりません。


 偉いのか、何をするのか、しなければならなくなるのか。
 誉められることなのか、面白いことなのか。自分にはふさわしいのか。


 言葉では「委員」という言葉はなんとなく理解でき、それが何かの「役割」のようなものだということは分かっても、どのような責任を持つかまでは実感として分かりません。

 またそれも先生からは示されません。


 ただ友人たちの中から誰か、特別な立場の子供として選ばれるということだけです。

 それが公的なものであることは分かります。

 学級委員に自ら立候補するような子供は、その社会的な仕組みに立ち向ってゆくような子供でした。


 もっと正直に、得体の知れないものには飛び込まないようにしようとする子供もいました。
 「面倒だ」という考えはまだ子供たちにはありません。


 何が起きるのか、選ぶほうにも選ばれる方にも、何かの変化があるだろうと予感させるだけです。



 そうして、半ば遊び半分の中、学級委員の選出が行われます。


 ちょっとした意見表明やスピーチも求められ、子供たちは笑いながらも、公的なものというものは何かということを少し学んでゆきます。


 大事だったのはこの「選ぶ」というプロセスだけだったかも知れません。



 だから、学校ではこの「学級委員だから」ということで何かを言いつけるとか、判断させるということはあまりありませんでした。


 つまり、気が抜けるほど有名無実であったのです。


 結局、名前ばかりの学級委員が選ばれ、ごくわずかの回数、それらしい役割が与えられたというだけに終わります。


 こうして、社会参加ということを最初に教えるのが学級委員であったかも知れません。


 低学年の頃は、学級委員長というのはまだありませんでした。

 
 やがて議長とか書記とか、他にも様々な役割のシミュレーションがされ、何度も繰り返されます。




 しかし、やがて、子供たちはそれに慣れしまい、せいぜい好きな子と一緒になれるチャンスぐらい、自分がクラスで目立つこと。


 そんなものくらいに理解を矮小化させてゆきます。






 この頃の教育というのはとても大事なことだったのでした。

 もし、こういう子供の頃の経験から政治家を志したという人がいれば、恐らく間違っている人でしょう。
 なぜなら、これは社会と自分の関わりのことであり、それを政治と結びつけてしまうなら、そこには主張や信条など入り込む余地などなくなってしまうからです。

 確かにそういうフシのある政治家というのはいます。


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