忍者ブログ
広告



宅配無料
レンタルベビーカーサービス

シェアno1のコンビ製品
ad
プライバシーポリシー

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

沖縄と沖縄海洋博覧会


 沖縄が日本に返還され、沖縄への旅行がブームになりました。


 それまで、戦後アメリカの統治下におかれた沖縄への旅行は、戦争を知らない若い世代にとっては外国でした。


 そして沖縄に行って帰ってきた人は、みなステーキ用の肉や缶詰などが安いことや安い酒、アメリカの雰囲気をお土産にして、帰ってきたものです。


 自動車の通行すら日本とは逆で、流通しているお金もドル。

 沖縄は身近なアメリカとして人気でした。

 沖縄の日本への復帰運動が盛んになると、沖縄のニュースも増えるようになりました。

 以前から問題になっていた、沖縄でのヤクザの縄張り争いと抗争も世間の知られるところとなりました。
 それは大いに映画となり、仁義なきシリーズなどとしてヒットし、スクリーンを沸かしたものでした。



 毎年のように離島や諸島が少しずつ日本に返還されてゆきました。

 そしていよいよ、アメリカから沖縄は正式な日本の一部として返還され、沖縄は日本国としての主権を回復したのでした。



 これまで、パスポートこそ必要ではありませんでしたが、手続きが必要で、パスポートのような許可証を携えて旅行する必要があった沖縄旅行でした。
 それが、日本国の一部として旅行することが自由になったのです。

 これまでの制限が解禁されたのでした。

 解禁と同時に多くの人々が沖縄を訪れました。新婚旅行先にもよくなりました。

 教師が新婚旅行の行き先にしたことを覚えています。


 そして目玉として沖縄海洋博覧会の開催が決定されます。

 海上に浮かぶ夢のようなケーソン状の建物が建設され、それは前評判から話題になりました。沖縄は好景気に沸いたと思います。


 そうした中、開催された海洋博にいち早く出かけた子供たちもいました。


 夏休みが終わると海洋博に行ってきた子供が現れました。

 そんな子供の周囲には他のクラスからも子供たちが集まって、沖縄はどんなところなのか、海洋博はどうだったかと質問攻めになったものです。

 海洋博はあまりパッとしなかったようですが、パンフレットなどを見せてもらうだけでみな感激したものです。


 世間では海洋博はあまり人気がなかったようですが、子供たちの間では、盛り上がりだけはあったと思います。


 新幹線に乗ったことのない子供もクラスメートにそこそこいた時代でしたから、沖縄旅行というのはとても遠くに感じたものでした。



 そんな中で社会科の授業は大いに盛り上がりました。

 日本地図を開くと沖縄は随分と近くの印象を受けます。

 実際は海を省略していたのですが、子供たちは沖縄を近くに感じたものでした。



 その後、つくば科学博覧会が開かれましたが、あそこまでのものはなかったように思います。

 博覧会は、大阪万博、沖縄海洋博、つくば科学博、そして愛知花博へと、現代に至るまで続きました。

 しかし沖縄の海洋博覧会が結果としてあまりパッとせず、そこからはこの種の博覧会は急速に盛り上がりに欠けるようになっていったと思います。



 やがてオリンピックも同じようになるのでしょう。

 今回のコロナと延期をきっかけにして、そうなってゆく予感がします。



 その次の時代に何があるのか、興味は尽きません。

拍手[0回]

PR

嘔吐


 子供の頃はよく嘔吐をしていました。

 学校帰りで、学校の裏庭で。

 人知れず、嘔吐していました。


 その後、カミユの小説に惹かれたというのは、決して偶然ではないでしょう(笑)。

 冗談でもなくてw。



 私の場合、クルマや電車に酔うということではありませんでした。

 遊んでいて暴れ、尻餅をついたりすると頭痛とともに嘔吐してしまうのでした。

 きっと脊髄を通って脳に衝撃が伝わったからだと当時からそう思っていました。


 そしてそのうち、それが慣れになっていました。


 だから嘔吐して保健室へ行ったということはありません。

 気持ちが悪くなり、いつものことだと感じれば人に分からないよう、校舎の裏とか学校の帰りなどに隠れて嘔吐をしていました。



 これに対し、本当にすぐ人前で吐いてしまう子というのはいて、乗り物に酔ったり、かけっこをしていても、また友人と「カゴメカゴメ」なんかをするだけで、すぐに目を回してしまうような子がいました。

 主に女の子。

 よく彼女たちが教師に保健室に連れていかれるのを見たものです。



 それは決して病弱という理由ではなかったでしょう。

 何かのことがキッカケだろう、どうにもならない原因からだろうと、私は自分のことからそう思っていましたから、病弱な子供として教師が常に扱おうとしているのを見て、ちょっと気の毒に思っていたものです。

 昭和の時代、「病気がち」というのはそれだけで差別されるものがありました。



 そしてその通り、そういう子は案外と強いもので、風邪で休んだことがなかったりしたのです。


 こういう、学校側からの対応で病弱のキャラが立ってしまうというのは教師の偏見、職業怠慢の不注意だったと思います。




 そういうレッテル貼りというのを昭和の時代には、教師たちはよくしたものです。


 きっと自分たちが左巻きで、教師の仕事をサボタージュして日教組なんかの活動をしていたという引け目からだったのでしょう。

 
 今よりも日教組はずっと弱小でした。

 そして常に色眼鏡で見られていた。
 その裏返し(笑)。



 日教組の教師が白眼視されていたのは当たり前のことです。

 教師がその思想偏向をあからさまにしていては、子供に教育など出来ない。安心して預けられるわけがありません。

 
 それとも、何も知らない子供だからと、キムチは世界一旨い食品だと、奇妙なデマを押し付けるのでしょうかw。

拍手[0回]



忍者ブログ [PR]

graphics by アンの小箱 * designed by Anne